雨がよく降ったのか田んぼに水が溜まっていた。
となり町から田を作りにきている人は光岡区の田植えが25日なのだが早々と代掻きをしていた。
自分は20日過ぎか。
苗作りにひと悶着あったことで思い出した書籍が二つ。
母校、作物学の片野教授著「自然農法のイネつくり」と、宇根豊著「減農薬のイネつくり」
どちらも読んだつもりでいた。
雨の中ぼちぼち読んでいるがなぜ今まで読まなかったのかとつくづく思う。
前者は21年前、後者は24年前の書物。
しかし、そこに書かれているものは戦後からその時までに培われてきた農薬や化学肥料を使用しない稲作に関する科学的実証が詰まっており、その内容はすでに完成の域にあると感じる。
それなのに今だなを稲作が農薬や化学肥料を使わなくとも育つということの認知度が低いことか。
一般の農家からしてもこの事実を聞かされても「ふーん」で終わってしまうことは実に惜しい。
忙しかったことへの反動で今日も仕事に念が入らなかったのだがそんな時こそ「人生の意味」を考える。
取ってつけるなら「今こそ日本の稲作に農薬・化学肥料は必要ないという事実を知らしめること」なんてかっこいいと思う。
会長を務める宗像市有機農業研究会でメンバーは農薬・化学肥料を使わない田んぼを1人1枚は試してみようと呼びかけたのもそんな考えからだ。
ずぼらな私が出来るのだから誰だってできるさ、と言いたい。
しかし、片野教授が人生を・・・かけたかかけていないのかは分からないがそのほとんどを農薬や化学肥料に頼らない稲作に傾けてこられても未だ現状はごく一部だ。
正直教授はスーパーマンかと思わせるエピソードを聞かされる度に到底私には真似が出来ないと思う。
そんな私が稲作に農薬や化学肥料が要らないと訴えたところでどこまで響くのかなど、もちろんそんなことを言っていてもしょうもないことは知っている。
それより自分の出来ることをすると考えれば、それは栽培者でないと出来ないこともあるだろうことも知っている。
第一に私が百姓になろうと思ったのは楽に生きたいからだ。
“楽に”、とは“楽しく”という意味。
なぜみんなわかってくれないんだ、なんて苦しみたくない。
そこで戻る。私の人生の意味とはなんぞや。
なるようになるさ。
しかし、なるようになるまででいいから何かしら生きる意味が欲しい。
それがあればもう少し気楽になれるんじゃないかと思う。
たぶん、誰かのためにと思えば頑張れる。
一番は身近な家族。
それは自分を育ててくれた親、祖父母より、その次の世代のことの方が頑張れると思う。正直。
もちろん忘れていけないのは自分の上の世代に感謝。
そこで小林正観さんは言う。
大切にしなければいけないのは目の前の人。
それは親がそこにいればそうだし、友達や知人だったりする。
はたまた名前も知らない人だったりもする。らしい。
そうなってくるとまたよくわからなくなる。
ブログはネット上に残る。
アナログで書く日記はどこかにいってしまえば分からないが、こんなところにこんな文章を書いて、老いて読み返すことがあるかもしれない。
そんなとき、自分はどう思うんだろう。
どんな状況になっていて、この文章を読むのだろう。
たぶん、今想像しうる最良の状況と心境で読んでいるだろう。