食べものの安全性は、そんなに大切なものなのか


「食べものの安全性は、そんなに大切なものなのか?」

とは、宇根豊氏の著書「国民のための百姓学」の小題の一つである。

この書籍の小題は、全て?で終わる問いかけになっている。つまるところ宇根氏の言いたいことは、問いかけの?、「ではないのではないだろうか」ということだ。

もちろんこの場合は、安全性が大切ではない、とは言っていない。では何かというと、安全性の追求の仕方が昨今は間違っているという。その追求の仕方(方向性)とは、異物の混入や、毒物の検査の強化であるとしている。

「百姓は、消費者が引き受けて食べてくれるから、丹精を込めて栽培し、届けようとするのである。」

消費者が引き受けて食べてくれる、とは生産者を信頼して、という意味だろうと自分は解釈するのだが、信頼してこそ安全性が確保されるということだろう。つまりチェック体制の強化が安全性の根本的な解決にはならない、信頼関係が一番であると。

安全性ということにだけフォーカスすると見えなくなる。しかし、消費者が一つ一つの食べものに信頼関係を持つことは困難なのが現状だ。

お米を買っていただいたお客様に「お米はちょっと高いんだけど、あなたを応援したくて注文したわ。」

と言ってくれる方が少なくない。本当にありがたいことである。

宇根氏のいう、消費者が引き受けて食べてくれるとはこのことだろう。では私、生産者が引き受けることとはなにか。

無論、安全性であるし、適正な値段や品質の保持、永続性などの信頼を壊さないことだろう。