すでに梅の花も散り始めたようだ。
まだつぼみがいくらか残っているときのほうがこれから咲いてくるんだなぁとい期待感のような気持ちがあっていいと思った。
ちょうど散布しているときの写真を撮っていないのだが、これは納屋の前で発酵させていた米ぬかぼかしをふるいにかけ、軽トラに積んでいる様子。
ふるいにかけるのは、散布するのにトラクターに装着できる散布機がそもそも化学肥料を散布するための機械なので、不揃いな塊があってはきれいに散布できないから。
堆肥などを散布する機械があればふるいにかける必要はないのだが。
利便性を追い求めていたら機械がいくつあっても足りない。
そもそも、もう十分に機械をそろえてきたのだ。これ以上細かいところに投資していてはやっていけない。
実は去年はこの米ぬかぼかしを作らなかった。
熊本の環保研でも無農薬・無肥料栽培が広まってきており、無肥料の可能性をみたからだ。
無肥料というのは一見すると惰性のようにも思えてしまうが、まずは肥料という位置づけは非常にシビアな問題であることを認識してもらいたい。
自然農の中には肥毒という観念がある。
肥料の毒。
自然界の中に、肥料というものは存在しないという前提。
本当の意味で植物が自然に育ち、最高の生命力をもったものを生み出すのに、肥料は邪魔をするのだという。
そんな考えもある中、そもそも耕作するということは、すでに人間の手が入っており、故意に種を撒かれ、成長し収穫される植物にとっては、故意に足さなければいけないこともあるのではないか、という考えに至った。
去年と今年、同じ無農薬の水稲だが感覚としてはだいぶ差があるようにも思う。
安全で美味しいものを作りたいという気持ちは変わっていないが、その時によりいろいろ手段が変わっていく。
1年として同じものはできないのは環境のせいだけではないようだ。