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武井壮が陸上5種競技の元日本1位であることは知っていた。

彼は5種それぞれの種目においての練習はあまりせず、意識して練習していたのは「体を自分の思うように動かすこと」だったそうだ。

自分の体を自分の思うように動かすことが出来れば、どんな種目でも自分の体をフルに動かすことができ、最高のパフォーマンスを発揮できるというのが彼の理論だそうだ。

納得。

それ以外にも、事故で医師から下半身不随の宣告を受けたにもかかわらず、

「ストレスで胃潰瘍になるくらいだからイメージすれば治る」と本気で思い、2週間で退院したそうだ。

本当かどうかは知らないけど、イメージすることがどれだけなことなのかを改めて知った。

少し前は「思考は現実化する」が座右の銘のように思っていたのに、最近はイメージすることを意識的にしていなかった。

しかし、ネガティブ思考が根本の自分は、ポジティブ思考の武井壮と同じ行程は辿らないようだ。

ポジティブからみればひねくれているといわれそうだが、それも個性だ。

自分にしかない思考回路だからこそ、自分にしか出せない答えがある。

出てくる答え、はたまたその過程をもっと意識的にイメージしようと思ったエピソードだった。

 

 

8回目の田植えを終えて

今年も無事に田植えを終え、すでに2週間が経過した。

稲の葉は緑色が増し、これからどんどん成長していくことを伺わせている。

田植えまでの1ヶ月は休みなく仕事。田植えが終わって少し休みを取りつつも水管理は毎日欠かさず回っている。

その間、いろいろなことを考えた。

肉体的なつらさから精神的なつらさが連動して、ネガティブな思考回路が堂々巡りしていたように思う。

もちろんネガティブな感情が悪いというわけではなく、今の自分を客観的にみるきっかけになる。

本当にしたいことは何なのか、自分らしくあるにはどうしたらいいのか・・・

2週間

そんな感情は田んぼの畦を歩いているとどうでもよくなりただただ気分良くなれる。

今のところの思考の終着点として、なりたい自分になる。自分らしくいること、それ以上でも以下でもない感じ。

身の回りの物一つとっても、自分が欲しいと思ったものかどうかを判断しようと思う。

でもその前に、どんぶり勘定になってしまった現状を整理しよう。

 

米ぬかぼかし散布

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先月6日に仕込んだ米ぬかぼかし肥料を散布する時が来た。

2月20日のブログにアップしている写真はもとが青白く移っていることもあるが、米ぬかが発酵して色が変わっていることが分かるだろうか。

はじめは握るとだまになるくらいの水分も、発熱による蒸散でこの頃にはさらさらになっている。

これまでに発熱を確認してから20回以上、スコップ1本で切り返しをしてきた。

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完全に発酵するにはもう一度水分を加えてやれば60度から40度程度に落ちていた温度もまた上がり、さらに発酵するそうだ。

しかし、田植えまで3ヶ月の期間があるのでその間に田んぼの土と馴染むだろうということでこのタイミングで散布している。

というのも、生の有機物を土壌中に混ぜると地表面に出ない数センチ下でも、微生物にとっては酸素が少ない環境になり、好気性菌が働かず、腐敗になりやすいと言われるため、発酵肥料や堆肥でも完熟していない有機物の散布には気をつけないといけない。

また、この米ぬかぼかしの散布量は10アール当たり、50kg程度と極少量であることも腐敗になりにくいと考えてのこと。

もっと詳しく探求する人もいるが、私にとっては土壌は宇宙そのものであり、答えを求めれば求めるほど息苦しくなるようなものを感じる。

感覚でやっていく農業も悪くないように思う。

 

この日は初春の快晴。のんびり外仕事をするには絶好の日和だった。

トラクターに乗っているのは最近アルバイトに来てくれているとても謙虚なH君。

次回の百姓三昧だよりでご紹介する予定。

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また、今の配達・発送に野菜がなくなってしまい、ようやく種を播けるまでになった。

写真はにんじんの種。

今から種を播いて収穫できるようになるのは早いもので5月下旬ごろ。

一時の間、野菜がなくなってしまい寂しいが田植え前にはいろいろと野菜の収穫が出来そうでいまからワクワク。

 

 

好きなことをする

自分は好きなことをしている。

でも、時たまこれって本当にすきなことだっけ。いや、こんなことがしたかったんじゃない、もっと自由になりたいんだ!

とか思うことがある。

心屋仁之助さんのブログには「好きなことだけをやりましょう」とある。

そこで来た質問に対して「やりたいことをやって生きていくには一番やりたくないところを一度は潜りぬける必要がある」と書いてある。

正直最初は意味不明だった。

それでもブログを読み進めていくうちに、なんとなく分かった風でとりあえず目の前の仕事に精が出て今日中に仕事を上がることができた。

そこで、今一度ブログを見直してみた。

すると、そこにはやりたくないことを一度はやらなければならない、とは書いてなかった。

やりたくないところを、一度は潜りぬける必要がある、と。

いやぁ分かりにくかったなぁと思う。

なぜ分かりにくいかというと、読んでいながらに前もって自分で答えはこうだろうと予測して読んでいるからだろう。

やりたくないことに対して、潜りぬけるとはなにか。

目をそらすわけではなく、

スルーするわけではなく、

誤魔化すわけではなく・・・

ブログには続きにこうある。

「なにがいや、なのかをちゃんと言う必要がある」と。

自分の場合でいうと、今晩の仕事というのはお客さんに送付している百姓三昧だよりというニューズレターがあり、それの住所録の確認作業だった。

私はそもそも農業がしたくて百姓になったが、パソコンの前で夜な夜な事務仕事をするために百姓になったわけではない、だから一時的にまったくもってやりたくないことをやっているような感覚になった。

しかし、私は今の何がいやだと感じているのかについて漠然と考えていた。

実は自分がいやだと感じていたことは、夜が更けてきたにもかかわらず依然として精が出ずにフェイスブックやら天気予報やらを見ながらなんとなく過ごしている自分にいやになっていただけだった。

そもそも、夜になる事務仕事も覚悟の上で個人販売を始めたし、この仕事自体はさほどいやでもなく、むしろ集中して仕事をし終わった時の達成感が好きでやりはじめたのではないか。

もし、それが実は気が変わって夜中まで仕事をしないようにするのであれば、そう決めて、さっさとリビングに上がればいいだけの話。

何が「いや」なのかを考えず、自分のしたいことをするということにきちんとフォーカスすることが出来れば、人生は好転する。そう思った。

 

無農薬のイチゴ

kaoruitigo知人が作っている無農薬のイチゴ。

無農薬や有機栽培の農産物が増えてきたがその中でも格段にイチゴの無農薬は少ないのではないだろうか。

私はお米を無農薬で栽培しているが、「無農薬は大変じゃないですか?」などと聞かれることがよくあるが、その度に一番無農薬栽培が容易い作物が稲だと思うと伝えている。

やはり作物によって農薬を使わなくても育ちやすいものと、育ちにくいものとがあるのだとは思う。

イチゴに並んでで難しいと思うのは大玉トマト。

熊本の無農薬イチゴの農家さんは知っているが大玉トマトの無農薬は未だ知らない。

このイチゴ栽培も同じくらい難しいのかと思うが、基本は全て同じだとも思う。

基本とは、水・光・土・温度・時期など。

写真の農家さんに伺ったときに座り込んで2時間ほどいろいろと話をしていた。

どんな農家でも農薬は使いたくないという。

新規就農した若者でも農薬は使いたくないというが、結局化学肥料と農薬を使ってしまう人もいる。

しかし、私やこのイチゴを作っている人は、鼻から農薬の“の”の字も化学肥料の“か”の字も出てこない。

なぜなら使いたくないから。

思っていることは同じように見えても、実際に使ってしまう人は、「使いたくない、けど使わなかったら怖い」となってしまうのだろうと話していた。

それでいて、結局農薬・化学肥料を使い、野菜を作って直売所に持っていっても時期になるといろんな農家の人が作っているので値崩れするし、売れ余る。

形の悪いものは最初から売れないから売らない。

きれいで、まっすぐで、安くないと売れない。

忙しい上に収入は増えず、農薬を使うから気持ちもギスギスする。

鼻から農薬を使わないと決めると、少々虫が食べてもそれでいいという人が買ってくれる。

野菜が美味しくなる。

作り手も食べるとおいしいから嬉しくなる。

野菜作りが楽しくなる。

売れ残りが無くなる。

収入が増える。

農薬を使わないから気持ちも安定する。

そんな仲間が増えるといいな。

 

伝えるということ

ぜんざいと玄米餅

 

5年前にお世話になった料理教室に、もう一度お世話になった。

きっかけは玄米餅の注文を頂いたこと。

玄米餅はもうもち米はなくなったので断っていたが、へそくりのもち米があったのでこちらを搗いてお届けした。

そのかわりといってはなんだが、面積が増え、お米をかっていただける方を探しているということを伝え、5年前と同じように料理教室に参加された方々に時間を割いてもらって話す場を作ってもらった。

違ったのは就農してすぐの24歳の農業者と、30手前の微妙な年齢の青年か。

しかし、思うのは伝えることの難しさ。

伝えよう伝えようと思えば思うほど難しくなる。

それは、伝えるということは感情の動きであり、伝えるものではなく、伝わるものだった。

だから、相手の感情を動かそうと思ったら、感情に訴えかけるのが一番効果的ではなくなる。

もっと自分をさらけ出し、自分のだめなところ、悪いところを見てもらう。

それが無ければ自分の思いの押し売りになってしまうのだろう。

スピーチって面白い。

料理教室の先生

5年前、有機無農薬で水稲栽培を始めた年にお客さんが紹介していただいた料理教室の先生がいる。

ここの先生には大変贔屓にしていただき、料理教室の合間に私を紹介していただいた。

それからというもの、料理教室ではずっと私のお米を買って頂いている。

農業福島園の当初、福岡市内のお客様はここから始まったといっても過言ではない。

その先生に教室のデザートにぜんざいを作り、その中に玄米餅を入れたいということで玄米餅の注文を頂いた。

そこで、先生に久しぶりに会いたいと思っていたこともあり、今日5年ぶりにお邪魔させていただいた。

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今年で30になります、というと「若い!」と返ってくるとは思わなかったのでなんだか嬉しかった。

道中にも何を話していいものかと考えていた。

今、こうしてまたお米を買っていただく方を探している理由。

それは、だんだんと集まってくる田んぼがすべて有機になったら、もしかしたら玄界灘の海まできれいになるのではないか、

そして、それが可能なのは自分なのかも知れない。

自分が宗像で田んぼを作る目標。

そんなことを知ってもらいたかった。

なんだかまとまり無い文章になってしまったが、最後にこちらの先生の宣伝を。

先生は久山にある茅乃舎という自然食レストランでレシピのお仕事をされているそう。

IMG_0290裏には作り方が載っている。

当園のカウンターに数部ずつ置いています。

 

高いから買えない

今日は水曜日、宗像市内、福津市内の直接配達の日。

ミルキークイーンの新米の販売が始まって早3回目の配達日。

しかし直接配達のお客さんはもうほとんど変化がない、上得意さんばかり。

そんな中、一人のお客さんが「私これからお店始めようとしてて、そこではこのお米は高くて買えないの。ごめんなさいね。」

ということで、そのお客さんへの配達は今日が最後となった。

高くて買えない、そうきっぱり言ってもらえたので自分もすっきりした。

もう買ってもらえないことへの未練はすっきりした。

しかし、高いから買えないのであれば、どうやれば買ってもらえる金額にできるかを考えたほうがいいのではないだろうか。

質を落とさず、自分のモチベーションは上がる、そんなやり方があるのではないか。

結局は何のために農業をしているのか、誰のためにお米を作っているのかという目的がはっきりしていなければいけない。

 

年が明けて

最近はめっぽうブログを書かなくなってしまった。

以前はこれも自分の仕事だと感じて夜の時間に更新していた。

しかし、今は結婚してアパートで暮らすようになって、「生活が仕事」という意識でやっていた仕事が、夜の生活時間が仕事から離れてしまったように感じる。

農作業の中心は納屋から始まり、納屋で終わる。

その家から車で約3分程度の場所にあるアパートだが、仕事への意識が離れてしまうのか。

ONとOFFの切り替えがはっきりしていないと仕事に集中できないという人もいると思う。

もちろん、そういった仕事のやり方にも賛成するが、私はあくまで生活が仕事の百姓でいたいと思う。

 

また、最近特に仕事に対する意識が “何のためにするのか” ということにフォーカスするようになった。

自分の作っているお米は、それを必要としている人がいるからこそ買ってくれる。そのおかげで自分は農業ができている。

ということは、買ってくれる人のために作っているのか、ということを改めて自問自答している。

根本的には自分が生きていくために仕事をするわけだが、自分のためだけではさほど幸福感は生まれないだろう。

幸福論についての大学の講義を放送しているNHKの番組を見た。

人は生まれながらに、他者に自分の幸せを分け与えることによってより強い幸福感を抱く、と。

何のためにするのか、という疑問に明確な回答を得られたわけではないが、結局は自分がどういう人生を歩みたいのかということに尽きる。

自分の人生のあり方をもっと明確にイメージして日頃の仕事をこなしていきたい。

イチローの4000

録画していたNHKの「プロフェッショナル」を見た。

夏場はあまりテレビを見ていなかったのか、イチローが4000本安打を達成したことを取り上げて、流儀を聞いていた。

4000という数字。

まず、プロの野球選手になることの難しさの上に、1日に1本か2本のヒットを積み重ねていく。

イチローの流儀を聞いていたが、いままでもそうだったが話そのものは正直そこまで感動するものではなかった。

イチローにはイチローの考え方があるし、自分には自分の考え方がある。

イチローはどれだけの記録を打ち立てたかというより、どれだけ苦しんだかが自分の満足、納得になるように思うと言っていた。

自分の場合、つまり農業の場合、稲作は1年に1回。

その1年には稲が生育している期間は約150日。

ほぼ野球の試合数と一緒だ。

プロ野球選手はもちろん試合の日だけが仕事ではない。

オフシーズンもキャンプだったり自主トレーニングはやっている。

農業だってそうだ。種を播く前から土づくりは始まっている。

ただ、特に集中すべきは種が播かれてから刈り取るまでの間なのだろう。

イチローのように、稲の生育期間中は一つの試合だと思って1日1日を迎えたい。

イチローの話の内容はピンと来なかったが、こうして久しぶりにブログを書くということで、その姿勢に影響されていたんだろう。

今は、イチローが体づくりをしているなら自分は土づくりをするか。

イチローにとっての4000、自分にとっては63歳になって田作り40年のときに、田んぼ4000枚でも作って、「まだまだ楽しみが足りない」と言いたい。

稲刈りをおおよそ終えて、最近思うこと

6回目の稲作がもうすぐ終わりを迎える。

6回目のこの間、あっという間であったことは言うまでもなく、種蒔きするときから夏の暑さを脳裏で思い描きながら、本当に稲刈りの時期が無事に来るのだろうかと、どこか他人事のように思っていた部分もあったように思う。

しかし、実際は時の流れは早いもので、いつの間にか11月になってしまった。

今はまだ、掛け干した古代米が乾燥するのを待っている状態で全て終わったわけではないが。

そんな今年の状況を改めて考えてみると、昨年の稲作のミス(失念していた部分)を取り戻そうと田んぼを意識するあまり、野菜を考えることがなくなり、ブルーベリーの管理にも気が回らなくなっていた。

さらには、段々と稲作自体の経営的規模も、栽培面積に対して設備が自分の理想からすれば狭く感じられるようになってきている。

そういった自分の現状と、環境破壊や化学物質の脅威、農薬・化学肥料を手放せない農業の現実を感じる。

こういった自分の状況がいつも失敗や至らなさの連続であることからも、社会全体がいつもそんな状況であるという縮図が、実は自分自身でもあるという皮肉な結論。

人間の世界はいつもねじれている・・・・のか。

そんなことを思うことと、もう一つは単純に“やりたいこと”だ。

自分には稲作や野菜作りのほかにやりたいことがいろいろある。

最近、試験的に作っている麦や大豆の経済栽培。

日本には昔から麦・大豆の食文化があったにもかかわらず、そのほとんどを輸入に頼るようになり、味噌風味の化学調味料などがあふれている。

それが良い悪いの話ではなくて、自分で作ると楽しい、面白いんだと思うことを再発見する。

家庭菜園とは違い、れっきとして経済栽培することができてはじめて本当の意味でも食に貢献できたと思える気がする。

その他にも畜産である。

一昔は牛や馬は身近な存在であったが、今では鶏を家庭用として買う農家も少なくなってきているのではないか。

お米を作っていると屑米が出る。一般家庭でもでる野菜屑だって鶏は食べてくれて成長し、卵を供給してくれる。

今はまだ祖父のペットとして数羽の鶏が福島家にもいるが、農協から配合飼料を買ってきている。

数年のうちには20~30羽ほどを自分なりに飼ってみたいものだ。

やりたいと思うことと、すでに手が回らなくなってきている感の現状。一見すると無理なようにも見えるが、結局はどうにかなるように思う。

日常

小林正観さんは言っていた。

日常という普段の生活が何よりも身近な学びの場であると。

何気なく見ていたyoutubeで眉間にしわを寄せてしまうような動画をみても、世の中にはこんな人もいるんだ、と。

蟻の社会には2割ほど働かない蟻がいるらしい。

なにをするわけでもなく、その辺をほっつき歩いているらしく、これらの蟻を全て取り除くとどうなるか。

餌を浪費する蟻がいなくなってその集団は効率よく巣を拡大・・・しない。

働かない蟻がいなくなると、今まで働いていた蟻のうち、2割ほどが怠けだすのだそうだ。

まぁおおよそ人間界も同じではないか。いろいろな人間がいて今の社会を築いている。

自分の周りにも見たくない、感じたくない事はいっぱいあるがそれも日常なんだと思えた。

日頃は仕事に時間をさかれ、英語の勉強がしたいとか、もっと漢字が書ければ・・・でも勉強する時間がないとか嘆いているが、そもそも学びの場はすぐそこにいっぱい転がっている。

目の前の事さえ学べないのに、どうして自分ばかりが利口になれようか。

不思議な気持ちになった。

米ぬかぼかし 散布

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すでに梅の花も散り始めたようだ。

まだつぼみがいくらか残っているときのほうがこれから咲いてくるんだなぁとい期待感のような気持ちがあっていいと思った。

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ちょうど散布しているときの写真を撮っていないのだが、これは納屋の前で発酵させていた米ぬかぼかしをふるいにかけ、軽トラに積んでいる様子。

ふるいにかけるのは、散布するのにトラクターに装着できる散布機がそもそも化学肥料を散布するための機械なので、不揃いな塊があってはきれいに散布できないから。

堆肥などを散布する機械があればふるいにかける必要はないのだが。

利便性を追い求めていたら機械がいくつあっても足りない。

そもそも、もう十分に機械をそろえてきたのだ。これ以上細かいところに投資していてはやっていけない。

実は去年はこの米ぬかぼかしを作らなかった。

熊本の環保研でも無農薬・無肥料栽培が広まってきており、無肥料の可能性をみたからだ。

無肥料というのは一見すると惰性のようにも思えてしまうが、まずは肥料という位置づけは非常にシビアな問題であることを認識してもらいたい。

自然農の中には肥毒という観念がある。

肥料の毒。

自然界の中に、肥料というものは存在しないという前提。

本当の意味で植物が自然に育ち、最高の生命力をもったものを生み出すのに、肥料は邪魔をするのだという。

そんな考えもある中、そもそも耕作するということは、すでに人間の手が入っており、故意に種を撒かれ、成長し収穫される植物にとっては、故意に足さなければいけないこともあるのではないか、という考えに至った。

去年と今年、同じ無農薬の水稲だが感覚としてはだいぶ差があるようにも思う。

安全で美味しいものを作りたいという気持ちは変わっていないが、その時によりいろいろ手段が変わっていく。

1年として同じものはできないのは環境のせいだけではないようだ。

今年の活動予測

今年もまだまだ準備期間のように思う。

まず、今年初めてしたいと思っているのが稲作体験(農業体験)。

1年間を通して稲作を身近に感じてもらい、農業福島園のこだわりポイントを実感してもらおうというもの。

1年を通してといっても種まきから始まり田植え、草取り、稲刈り、脱穀の5回か、最後に年末のもちつきといったところ。

まだまだ計画段階どころでもなく、空想段階。

あとは環境保全のボランティアなんてのもいいなぁと、これもやはり数年前からアイデアとしてあった。

当園の圃場がある光岡は、山間部から降りてきた水が幾度か田んぼを通過した後に小川となって当園の田んぼに流入する。

この小川が宗像も都会化が進んだ証拠である様相をしているのも事実。

田んぼの周りのゴミを拾うことはるが、河川をきれいにすることから始めるべきだと感じてはいた。

数日前からとある書籍を読み始めて、今後の日本の行く末と農業のあり方なんてのも考えている昨今です。

我は世界で唯一の凡人なり

農業界は他業界とは違った空気感があると思う。

近隣で建設業・産業廃棄物業の会社が農業界に進出してきているが、現在の農家やJAと渡り合う上で今までの勝手の違いに悩まされているようだった。

私も父の建築業を見てきた上、産業系の空気感との違いを感じる。

なにより農業界には「なれあい」や「人間味」臭さと表現するようなものがあると思う。

とはいっても私もその界に属する人間であるわけで、その空気感が好きだ。

不思議とその感覚が、「これからの農業はもっとこうあるべきだ」と思うとき、有機農業だったり環境だったり、健康だったりしたワードよりも自然と周りの農家同士の“それ”を思い浮かべる。

今の自分は何がしたいのかを考える昨今、他の農業者もいろいろ考える中で、自分も同じ凡人であり、しかし農家の中でも全く同じ考えの人間はいないわけで。

今の自分をまず自分で肯定する。

我は世界で唯一の凡人なり、と。

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