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my哲学 Archive

麦秋

img_2970麦に秋の季節が来た。

植物は多年草であれ、1年草であれ、自分の生きる季節を知っている。時期になれば自ら枯れ上がる。

まるで、自分の運命を知っているかのように。1本もまだ生きたいと思っていないのかいっせいに黄金色になる。

人にもそんな時があるのかもしれない。作物の場合は、遺伝的にほぼ同一人物であるなら、人は多様性に富んでいる分、その時もまちまちなのか。

人為的に人の遺伝子を優位なものだけに均一化するような、SFの世界がやってきたとき、いつか人も麦のように一斉に秋を迎えるのかもしれない。

本音

前日の日記で、「周りが認めるような生育の良いブルーベリーに、我が圃場はなればよいのだが、と思う。」と率直な感想を書いたのだが、後で読み直してみると、以外に自分が見栄っ張りで、自慢家であることがわかった。

普段、そうならないように気をつけているのだが、結局のところ人に認めてもらいたいとか、自慢したいなどという気持ちがある。

そんな気持ちでは植物は育ってはくれない。断言できる。

以後、気をつけよう。

畑違い

大学の恩師が言っていた。

「”農学部”を卒業したものは世間では農業に関して一般的な知識を身につけているとみなされ、前提に話しをする。」

だからというわけではないが、花卉のことや野菜、果樹のことや病害虫、土壌生理など、おおきくまとめれば農学になるのだが、ある程度平らに知っておきたい知識である。

しかし、実際農学部をでたからといってもほとんどの学生はこれらのうちの極わずかな分野のみしか勉強していないといってよい。

分子生物学を専攻していた人にほうれん草が何科の植物なのかなどと聞いても畑違いといってしまえばそれで終わり。

しかし、これはそれだけ農学という学問が多岐にわたり、一筋縄ではいかないことを示している。到底4年間では終われない学問である、とつくづく思う。

それと共に、大学が一つの畑だけを集中して掘り下げてしまうという仕組みであるがために陥る落とし穴であるように感じる。まぁ大学は研究機関であるため専門的になるのは当たり前だが、森を見ることも忘れてはならない。

もっとも事の行き着くところはいつも「好きこそものの上手なれ」。望まれるから頑張るのではなく、ただ単に好きだからという衝動が一番無理がなくてよい。

生き方

人それぞれという言葉があるように、人にはそれぞれ独特のなにかを持って、掲げて、誇りにして、生きている。

それを生き方というのだろうか。この生き方とは人によってそれぞればらばらであることが人間性なのだが、

どうしてもこの生き方が良い、この生き方は悪いと判断しがちだ。

人それぞれであることを認められているのに、なぜか他人を意識したときからその生き方に是非をつける。

もとより、人は“それぞれ”であってはならない面があるということなのかも知れない。

良い悪いの区別は他人が決めるものであるとして、本人が自分の生を全うしたと思うのであれば、それは立派な生き方であったといえるのだろうか。

そもそも、立派な生き方というものがあるとするならば、だが。

「人にとって肝心なのは、望んだり生きたりすることに飽きないことだそうだ。」

攻殻機動隊 イノセンスより

思い込み。知ってるつもり。

人生、生活、仕事、恋愛、これら日常茶飯事(恋愛は別?)なことほど陥りやすい。思い込み。知ってるつもり。

自分が今までに勉強したことや、教えられたこと、学んだことは案外もろくも崩れ去ることがある。いままでこうだと思っていたことは、全くの逆だった、と。

それは、とても受け入れがたいものになる。記憶の畑にはすでに別の作物が植わっていて、そこに新しい作物の種を撒くのは難しい。一度さら地にしなければ、新しい種は成長しない。

しかし、その新しい考え方の種さえも確かなものとは言えない。その考え方が正しいとか、間違っているとかは人によっても変わるし、時によっても変わる。それはいつ変わるか予想もできない。

常識に囚われないとは、どういう思考回路の畑でいればできるのだろうか。また信念という生き物はどう育てたらよいのだろうか。

今日、ぼかし肥料を販売している会社の社長さんが訪問してくれて、ブルーベリーやぼかしについて話をする機会があった。

社長さんはいろいろな農家を回り、いろいろな話を聞いて回っている。知識人でもなく、実践者でもない人なのだが、とにかくいろいろな人の話を聞いておられる方だ。

その方の話を聞くと、自分が知っていたようで、知らなかったことをズバズバ言われる。自分が知らなかっただけに本当かどうか疑いたくなるが、筋は通っており言い返すことはできない。

木は枝を切られるとどうなるか、そこに着く実はどんな実になるか。そもそも植物は元気で、枝を切られても再生できるのか。どれだけ根は伸びているのか・・・

教科書には載っていない、植物(生き物)の見方。これもまた、人の話。

朝露にぬれるえんばり

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早朝の露が稲の葉先につく。露はえんばりにもつくのだがこの写真にはどうやら付いてはいない。

”えんばり”の漢字は?とおもったらどうやら宗像の方言らしい(市公式ホームページより)。

この蜘蛛は稲にとっては益虫だ。この時期から稲を食害するウンカなどを捕食する。農薬や化学肥料を使うことによってこれらの生物の多様性が失われることによって自然は不均衡となり、さらに食物の生産は困難になる。しかし確かに化学肥料・農薬は確実な省力化を成し遂げ、その恩恵によって大量の食物生産は成り立っていることも、現在までは事実であった。

そしてその傾向はそれほど変わることはないだろう。そのなかで、これらのものを使わずに食物生産をするということは相応の理由たるものがあるからだ。

思想なき有機農業

今日、有機農業の勉強会というので山口まで行ってきた。写真は田んぼに水を入れている水口に資材を流水に流し込み、全面施肥してるところ。

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行った先は有機農業を可能にする微生物を利用した有機物資材の勉強会であった。この会社の資材も何も知らずに付いていってきたが、たしかに稲の生育もよく、食べさせてもらったおにぎりもおいしかった。

そこでさっそく、今からでも間に合うため資材を利用したボカシを作り、やってみようと思う。

しかし、今回の勉強会でも一番の収穫はやはり人と知り合うことができたということだ。 

理想と現実、信念と疑惑

今はまさにそんな状態である。

今年は爺さんのやり方で稲を作る。最初だから仕方がない。そう思っていたが、いざ除草剤を振らなければならない時期になれば、除草剤を手にすることさえ拒否したくなる。まして稲が植わっているところに撒くなど考えたくもない。

どうにか蒔かないでいい方法はないか。しかし、いまさら草をとりおおせようとも思えない。最初に言ったとおり、爺さんの指示に従うか・・・。

そんな思いで田圃を見ていると・・・

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栽培方法

農業の仕方はいろいろある。そのやり方を一般的に“農法”と呼ぶ。よく○○農法といって独自の方法論をもとに栽培方法が確立されている。今、農業をはじめた自分が思うのはどの農法にも間違いは無いということ。それは慣行農法と呼ばれる農薬、化学肥料を用いた農業のやり方さえもである。ただ、自分は農薬、化学肥料は用いないというだけ。

農薬や化学肥料もできた原因がある。その使用が自然を壊し、非循環型であろうともこれらの存在が正しいとか正しくないとかはない。

話を元に戻して、農法(農業のやり方)はなぜ多数あるのか。それは生き物は単純ではなく、人によって生物や環境への感受性が異なってくるからではないだろうか。

畑を耕さない不耕起栽培。福岡正信の自然農法。赤峰勝人の循環農法。シュタイナー農法。さっきネットで行き着いた無肥料栽培。そのほかにもいろいろな栽培方法や理念があるだろう。はっきり言って俺は今、どうやって植物を育てていいのかわからない。まぁそのうち何かに気づくときがくると思う。そうなったら俺も、栽培方法に独自のネーミングをつけるときがくるのだろうか。自分の経験を栽培方法として発信する、重要だろう。

ちなみに現在の栽培理念のベースとなっているのは赤峰勝人さんの循環農法である。よってその循環をとって農園の名前を「循環式農場 福島園」がいいんじゃないかなぁと、現在考え中である。福島園ってのがありきたりで考えどこ。

目標と目的

目的 

本来、人生に目的など存在しない。ではなぜ目的を見つけ出すのか。人として生を受けた以上、生きなければならない。生きるという至難の業を成し遂げるには目的をとってつけたほうがしやすいから。

生きる目的。生きるために生きる

感じるために生きる。

 何を感じるため?生きていることを感じるため。

   生きているという喜びを感じるために生きようと思う。

目標

生きているという喜びを感じるためにはどうなればよいか。

 日々感動できることをする

 日々感動できるものを作る

これからの人生ですることの是非の判断は感動するかどうかで決めようと思う。

 

本当は営農する上での目的と目標を考えるつもりだったが結局根本的なことを考えただけでちっとも実践的な内容にならない。(^^;あわてないあわてない。

後の祭り。

終わってしまえばすべては過去となる。

だがその過去はどんなことがあろうとも変わることはなく、現在に多大な影響を与える。

と、そう教えられているからそうは思うものの、それ自体に意味はなく、どんな影響を与えて現在が変わろうともその現在に意味はない。事実と思われる現在があり、ただ自分はその現在に浮かんでいるだけの存在。意味のない存在。

これから現実と仮想空間の区別がつかなくなっていく未来に仮想空間の自分がすでに自分の中にあり、その手段が少しずつ進歩し、自分の仮想空間とリンクしていく。

この世はすでに別次元を構築していっているのか。

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っと、漫画の影響はすごいものがあるな。

昨日で卒業論文の発表を終え、不足していた睡眠を必要以上にとり、放置していた部屋を片付け、朝飯をたべながらブログを書く。いざ自由になると何をしていいのかわからなくなる。暗黒の自由。

時間の全てをなげうって

「今という時間の全てをなげうって卒業研究をしあげろ、そうして全力を尽くすことでえられるなにかを知るために今はそれが必要だ。」

そう俺のゴーストがささやく。そしてこうも言う。

「そうやって全力をだしきることで自分が崩れることを体験することが必要だ」

俺は、自然と生きたくない生き方を一度は経験しないといけないと思い、したくないのにしようとする。そんな自分を第3者的視点でみえる。

卒業研究発表会まであと4日。

人を注意する

人の行動を注意するということは自分の考えをおしつけることにはならないだろうか。

人に教えられて成長をするということ自体が固定観念であるという広すぎる視野からいえば人は他人になにも言えないのか。しかし、人は支えあって生きている生き物は間違いなさそうだ。とするなら人にとって悪いと判断される他人の行動(言動)を是正することは人が生きるうえで自然と身につけた生存方法の一つなのか。つまり本能ではないかと。

他人に注意することをせず、本能を無に返そうとするべきか・・・

すべての人を認める。それもまた人の生存方法の一つ。この方法ならこんなこともかんがえずに済むか。

よく人にはそれぞれの器があるという。その器を大きくするべきなのか、深くするべきなのか、ただ器というものはあるだけでどうしようもないのか。。。ただ一般的には大きくすること=成長という観念が定着しているようだ。たしかに歳を重ねるにしたがって人は成長するものだ。しかしだからといって器をおおきくすることを個人に望んではいけないのではなかろうか。

人は成長するときはするし、しないときは成長するための準備をしているようなもので成長することを短期間に強要しては個人のアイデンティティーの限界を超え、自分を見失ってしまう。

だからといってただ見ていればいいとも言えない。信頼するしかないのか・・・。

自分自身の器とはどういう付き合いをするのが良いか・・・。器に合わせて生きるか、器を広げようと生きるか。

今日は自然とその器を広げてみたが糸が切れた凧になってしまった感がある。

風呂はいって寝よう。。。

やりたくないものをやる

やりたくないものをやれという社会。あたりまえ。常識。

やってあたりまえ、してあたりまえ。

そういえるのは自分にだけ。

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